昭和42年8月31日 夜の御理解
信心が一段と進みおかげの世界も又、今迄とは違ったあか抜けしたおかげの世界が展開してくる、開けてくる。と、そこには当然神様としての必要を感じられるのはお試しである。いわゆる試験です。ここは皆さんよく信心を進めて行く上に心がけておらなければならないことです。信心が少し身に信心に実が入ってくる。信心が有難うなってくる。神様が当然おかげを下さろうとする準備が始まる。
だから現在分かっておると言うておる、有難いと言うておる。その分かっておる程度をお試しにならなければならない必要を神様は感じなさる訳ですね。
教祖の神様はご晩年の頃は、参って來る信者一人一人に仰られたと言うことでございます。「用心しなされや、信心に実が入って來ると神様のお試しがありますぞ。」と、云うことであった。 信心に実が入って來ると、当然お試しを、お試しを受けると云うことは、そこまで信心が云うならばもう、進んだと云うことになる訳です。そこんところを日頃の信心、日頃の頂いておる教えにものを言わせてそこんところを有難く受け抜いて行くとか、元気な心で受け抜いて行くというような信心にならなければならないのでござます。 今日、森部の高山さんが二度目のお参りをされてから、今朝お届けをするところでございましたけれども、連れがあって、早う帰らなければならなかったけれどもやっぱしここに引っかかりますので、お届けにでて参りましたと、云うてお届けに参りました。
そのお夢のお知らせを、それがですね、お夢の中に山の峠に到達しておるところである。そしてこれから先が楼門の五右衛門か何かと言うね。五三ノ桐と云うお芝居にある石川五右衛門が言うせりふがございますね。絶景かな、絶景かなと言うところ。そのこれから先はそれこそその芝居のそういう五右衛門のせりふじゃないけれども、いよいよ絶景かな絶景かなと云うような素晴らしいところを、これから通らせて頂くと云うその模様がし、ところがある方がですね、もう絶対にそっつん行くよりか、こっつあん行く方が楽ですよと云うてですね、今迄の逆の下りの方へ誘われる、ね。だから誘われるままに下りの方へ下り坂の方へ下ってみると、やっぱり下り坂の方へもです、やはり絶景かな絶景かなと云った。あんたこちらへ下って来てもこんなに景色の良かところがあったたいと言うておるところを頂いた。それがもう、お夢の中に頂いたのですけれども、それが早くもう、とにかく早くお届けせなければおられないと云うような衝動にかられたという訳なんです。
それで明日でも良かったのだけど、また改めてお届けに来たと云う。丁度昨日ある方から電話が掛かってきた。それが大変気になることでございましたから、そのことのお届けもございましたので、はあ・・このことであっただろうかと言うてそう心の中に感じたことがあったね。と、云うのは、丁度その頂上に着いてそれからいよいよ山があります。頂上からずっと歩いて行こう。良い景色の所を通って行こうと云うておるのにです、下りの方が楽だと云うて誘われる様な電話であった、電話が。ここのところで失敗して大事の出来ると電話でもう思わせて頂いたから、そのように私は申しましたけれどもね。そのことをお届けに参ります。たとえばそういうお届けさせて貰いながら、あなるほどなあと合点するところがございました。 例えばですね、あの熱心に信心をさせて頂いておって信心を止める人がございます。又信心をおろそかにする人があります。あれだけ信心を頂きよってあれだけおかげを受けておられるのに、よう信心が止められること、いや信心があんなに又後ひざりが出来ることと云う様な場合の人がございます。その人達が言うたりやったり、思うたりしておることと云うたら、みんな同じ、信心止めたばってん、やっぱりおかげ頂いておりますよと、云うことである。それはそうでしょう。通って来た道ですもの。通って来た道すがらにでもやはりおかげを受けて有難い、勿体ないと云う方がいくらもあったと云うことです。ですから、そこを通らせて貰うのですから、やっぱり有難いと思う。勿体ないと思う場所はあるけれども、下まで降り着いた時から、それからがいけないと云うことになるのです。私はそのことを聞かせて貰って成程合点がいくことがあるのです、ね。
信心止めたからもう、例えばまあ俗に云うならば罰かぶったとか、信心止めたけんおかげを落としたと云う様なことはない、ね。下り坂になる、今通って来た例えば道を下るのですから、やはり信心させて頂いておる内に有難いと思うた、勿体ないと思った様な場所をやはり通るんだと云うこと。但し降りきったところからが私は違うんだと云うこと。ね、いよいよおかげが目の前に百のものなら九十九と云う様な時にですね、百になる為にどうしても九十九と云う苦に苦が重なる様なところを通らなければ百にはならないと云われておる。そうでしょう。九十九を通り越えて百になる数がありませんもの、ね。百のおかげを頂く為には、ほんに苦に苦が重なるであるとはこの事であろうか。と、云う様なところを通り抜かせて頂いてこそ百なんです。特にああこんなに信心しておっても苦に苦が重なる様であるならばと云うて、九十八の方へ行くとするならば、成程それでもおかげではないと云うことはない。おかげの中を通らせて貰うのだけれども、元の位置に戻った時からが後はゼロである。そうでしょうが、ね。 ですから、信心を進めさせて頂いて行く内にです、様々な所を通ります、ね。特におかげがいよいよ間近いと云う様な時に、必ず決ってと云って良い程お試しを受けると云うことを覚悟しなければなりません。覚悟しなければならないということは当然なのです。けれどもそこんところを日頃信心によって、そこんところを頂きぬかせて頂くと云うことがです、信心辛抱でありある意味合では馬鹿と阿呆でその次の道を開いて行けと云うのである。
先程でした。末永さんが参りましてから、先生今朝がたからお夢を頂きました。それがそのお芝居がありよる様です。そのお芝居の配役の中に私が馬鹿にならなければならないと云う。その馬鹿の演技を演じなければならないと云う役割が私に回って来ておると云うお知らせ。私はそのお夢を頂いてです、本当に有難いと思うた。この頃総代の久富繁雄さんが頂かれたと云う、ね、五本の指に一人一人名前が付いていると云う。ボウブラさん、なすびさん、きゅうりさんと云う風にこの指に名前が付いている。久富のおっちゃまが云うておられた様に、本当に馬鹿と阿呆で行きゃよい。ボウブラさんになって行きゃよいと云うておられた。あのことが今改めて本当にあのバカになって行くことがこう云う素晴らしいことだと思うておかげを頂いた。きゅうりと云うことはお徳と云うことであろう。なすびと云うことは安心の大みかげと云うことであろう。ね、
そういう中にですね、有難い勿体ないの道が開けて行くのであると云う様なことを感じたと云う様なことをお届けするんです。ね、 ですから、そういう様な例えば、本当にここで利口者になろうと思うたら、そげなこつなと云うて腹を立てる様なことになるけれども、そこんところを日頃頂いておる馬鹿と阿呆で道をいやが上にも開いて行くと云う信心を私は頂かなければならない時である。
ここぞ信心辛抱とはこのことだ。出来る辛抱なら誰でもする。出来ぬ辛抱をさせて貰って初めてこれが信心辛抱だと云うことを分からせて頂いて、ここんところを上の方のいわば私が何時も言う不退転の信心。前に進んでも後には下がらぬと云う信心、ね。そこから私は、いわゆる上の方へ開けて來るところの絶景かな、絶景かなと云う様なおかげが展開していくのであり、よしそこで下り坂になってもです、やはり、ね、信心は落としたけれども、この頃、お参りも前よりも前のごと修行もせん、お参りもせんけれおも、おかげだけはやっぱり受けておると云うのは、それはその筈だと云うことを先程から申します様なことで分かるでしょう。自分が通って来た道だから、やっぱりそこには有難いも、勿体ないもあると云うこと、ね。但し降り切ったときからがいけないんだったら、それからと云うてから、また一番から上り直さなければならない様な愚を繰り返すことのない様な信心をお互い頂きたいものですね。 どうぞ。